エロスト

「お前たち!ニッポン人とは呼ばれず、鬼畜米英人=白人たち=からは『ジャプ』『イエロー』って呼ばれてるんだ!
そんな奴等の野望や侵略から、亜細亜・大東亜共栄圏を守らなければならない。
その使命が、君等小国民の肩に懸かっている!」
と言われ続けて、太平洋戦争の敗北を迎えた日から……私の人生は狂ったものになったと言っても過言ではない。
両親の許を離れ、国民学校(小学校)の地理でも教わらなかった土地へと、学童集団疎開に旅立った日は、
子供でも出征兵士の一員である様な気概と興奮に包まれていたが、やがて襲って来た悲嘆の郷愁にも耐え、
竹槍戦に加わるぞの体力と意気を保持するように努めていながら、惨めな敗戦を山間の村で知ったばかりか、
帰京の列車では「勝った!」とばかりに横暴に振舞う帰国を急ぐ在日韓国人たちに車内の片隅へ追いやられていたのである。
未成熟なぐちゅうほう盡忠報国少年には住む世界の激変が分からなかった。
「死ぬために生かされていた」事から、「お前たち!生きていて良かった。
これからは祖国復興のために頑張れ」と豹変した大人たちの言種はただ「馬鹿ヤロウ!」の思いでしか聞けなかった。
焼け野原の”生まれ故郷の東京で少年の見た光景は、敵国人であった米兵の腕に抱かれてチューインガムを噛み噛み歩くパンパンガールの破廉恥さ。
銃後の女性の堕落ぶりに無性に腹立っていたものである。

私の描く絵に、女性嬲り・嗜好性を見るなら、「軍神になれよ」と口癖のように言っていた母を含めて、日本の敗戦によって変貌した女性の劣悪性に嫌悪するものが尻をひいているからである。
私の絵心は、就学前の電車・飛行機・軍艦を描く事から芽生え始めていた。
おハナやおウチの静物画を、国防ポスターの裏に画く事はなく、学童疎開中は配給の帳面(ノート)の一頁に、「隼(はやぶさ)」「鍾馗(しょうき)」「零戦」を描き、村の子供らに手渡すことで切り餅を手に入れる知恵になっていた。
彼等のヌリ絵遊びに役立っていた。
敗戦後の東京では「ジープ」が売りになって、銀シャリの握り飯と交換する事が叶った。
女を描く様になったのは十六歳。異性興味が湧き出し、全裸姿見たさで絵画研究所の”日曜クロッキー会”に恐る恐る通い出したときに始まった。
その動機は演劇関係図書を古本屋巡りで手に入れようとしていた際に、「なんだ、この雑誌は!?」と手にした「綺譚クラブ」にある。
女の責め絵を……挿絵・カットで目にし、「馬鹿な女を仕置きする」興味を、空想から自分の暮らしの中に持ち込もうとしたのである。
「綺譚クラブ」誌に投書を始め、それに添えて送ったカットで、画稿料を貰ったのは1960年代の私が三十才代になってからで、その画稿料は内職の謄写版印刷用材料費になった。
貧乏人は書留を手にして感涙したものである。
当時の原画は送り返されて来なかった。

麗続き


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